and yet I fight and yet I fight
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こう考えることがある。
自分を含めて、出来るだけ多くの人が幸せに暮らせる世界になればいいのに、と。
でもそこから自分で何が出来るか、動けるかって問題になるとどうすることも出来なかった。
ただ単に、享受された生温い世の中に佇んでいただけだ。
でもそれは単に探し続ける事をしなかっただけなのかも知れないと、今では思う。
そもそも周りの人たちは、僕1人を置いて過ぎ去っていく。
思い出されることもなしに。
世界は回っていく。
それは誰にも止められない速度で。
気を抜いていたら、もうあっという間に世の中は変わっていく。
そしてだいぶ遅れながら、先を行く人たちを見ながら、必死についていく。
焦りは無駄な動きを生み出すだけだ。
ちっとも前に進まない。
そしてはっとするのだ。
今やっている事は本当にやりたい事なのか?
何となしに続けてしまったから、難しい理由をつけているだけなんだろうと。
辞める勇気もなく、惰性で続けているだけなのだろうと。
だから自分にすら訴えかけるものがないのだろうと。
もっとシンプルに考えたい。
生きたい。
泣いたり喜んだりしたい。
迷いの無い道を進みたい。
通り過ぎる人たちに嫉妬し、挫折した人を見ては優しくする。
そんな自分が嫌になる。
思えば30代も後半になる。
あの時から凄かったあの人は、ネットで検索すれば有名人になっている。
もう怒れる10代じゃあ無いし、エネルギーがあるわけでも無い。
特にこれといった才能が無いことなんて既に分かっているじゃないか。
何か新しいことを始める勇気すらないのに、既存の仕組みに組み込まれる事に拒絶してばかり。
よせやい。
君に逃げ場所なんてもう無いんだぜ。
親に泣きつくのか?
甘えるのか?
一体、何がしたいんだ。
答えられないでしょ?
一体、何がしたいんだ。
昔からこの手の質問に答えられたことが無い。
なぜなんだろう、いつもこんなことばかり考えているはずなのに。
快楽だけを追求して生きられたらどんなに楽しいだろうか。
しかもそれが社会的にも認められていたら。
本当にやりたいことを見出し、真っ直ぐに向かっている人の顔を見たことがある。
決して真似などできない良い顔、生き生きとした人らしい顔をしている。
そんな人を見ると、僕は自信がなくなり、遠慮がちに後ろに下がっていってしまう。
これから何か見つけられるのか。
誰も答えてはくれない。
知っていても教えてくれない。
そこに正解は無く、セコい問題だ。
一生をかけても解らないヒトだって居る。
解けずに諦めてしまったヒトも沢山居る。
難しいよ。
そこまでする価値があるのかすら解らない。
そんなことを高架下にある家で考える。
答えは出ない。
出るわけもない。
しかし定量的に判断できないのであれば、可能性としては無限であるとも言える。