GloryDazeDays

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赤オレンジ色の西日差す、狭い団地に住んでいたころ。

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[http://photo credit: TLV and more   via photopin (license)]


小さい頃に住んでいた東京の下町にある団地は、夕方になると巨大な赤オレンジ色の西日が強く差し込む家だった。

そして今思い返しても、我が家は本当に汚い家だった。

不潔で汚いというより、モノが多すぎて散乱しているという感じだった。

元々の家自体が、巨大な集合団地で一つ一つの家は狭い家だった。

そこに両親と妹と僕の4人で住んでいた。

この団地全般に言えたことだけれど、子供が大きくなるにつれて4人家族で住むには限界があった。

ましてやウチはモノが散乱している家だ、それこそもう足の踏み場が無いって印象だった。

僕はいつの頃からか、それがずっと恥ずかしかった。

 

小学校のころ、僕らの周りで友人関係に関する、ある文化があった。

それは、友人をわざわざ自宅に招く・招かれるというのが、単なる友人関係から格上げされた証というものだった。

どこの地域でもあるのかは分からない。

それは都心と地方でも違う気がする。

地方はどこの家も広くて戸建てのイメージがあるし、結構アバウトに自宅に呼ぶ、呼ばれるような気がしている。

ウチの周りは、不用意に家に人を招き入れてはいけないという風に教育された友人も多く、マンション住まいのちょっと小金持ちの家庭が多かった。

時はバブルに入る少し前、90年代に差し掛かる頃で、景気も良かったのだろうか。

 

そんなこともある中で、僕は結構自宅に呼んでもらえる系の男子だった。

そのころから友達が数多くいたわけじゃないんだけれど、何となく僕のキャラクターにハマってくれる人ってのがいつも一定数存在していて、彼らは僕を結構評価してくれていた(ように思う)。

話が面白いとか、描く絵や独特な観察眼、思いついた遊びのセンスなんかを褒めてもらっていた。

で、そういう数人の友人の家にいき、僕らはファミコンをやって家のお菓子を食べたりしていた。

大抵そういう家は、常にお母さんが家にいて掃除が行き届いていたり、小学生で自分の部屋があったりした。

楽しかった帰り道、そういう環境の違いをまだ受け入れられず、「なんでウチとは違うのだろう」と考えたりしていた。

 

そういう毎日の中、当然だけど今度はウチに来たいと言われるようになった。

彼らは僕を散々自宅に呼んでいて、今度はコッチが僕の家に呼ばれる番だと当然思っているわけだから。

でも僕はあんなゴミ溜めのような家に呼んだりできないと強く思っていた。

恥ずかしかったし、馬鹿にされると思ったし、何より父親の対応が怖かった。

いわゆる優しい父さん的な雰囲気の、子供達の遊びに興味を持ってくれるようなタイプじゃなかったからだ。

 

僕は抗うように何度も誤魔化したり、嘘もついた。

今日は親が家にいて、親の知り合いの大人が何人も来るから無理、とか。

親は家に子供が来るの嫌がる、とか。

何度もそういう嘘をついて誤魔化していた。

 

そうすると段々と、僕自身が友人の家に呼ばれなくなってしまった。

クラスで友人たちが遊ぶ約束をしていたから、当然参加する体で話に入ったときのこと。

友人の1人から「いや、お前いつも家に呼んでくれないじゃん、だから駄目!」と言い放たれた。

僕はショックを受け、とても悲しかった。

でもそうだよな、とも思った。

 

でも仕方ないよな。

共働きで、布団が引きっぱなしの家なんだもん。

親父の趣味の釣りの仕掛けとか、革細工とかが散らかってて、人が踏み入れるところないんだもん。

洗濯物も取り込んだけど畳んでなくて、そのまま山になってるんだもん。

僕は悲しかった。

自分ではどうにもできない現状と、親に訴えてもどうにもならないであろう現実が悔しかった。

そのころの僕は、父親に対してワガママが言えない恐怖を感じていた。

そんな父親に、家が汚なくて友達が呼べないから片付けてくれとは当然いえなかった。

 

でも友達が離れて行くのは、それはそれで恐怖だった。

小学校へ入学するタイミングで千葉から東京に転校してきて、当初は環境に慣れなかった。

はじめは登校拒否のような時期もあった。

3、4年生になり、ようやく遊べる友達もできた頃だった。

僕はできるだけ家の片付けをした。

畳めるものを畳んだり、押入れにいれたり。

 

そして意を決して、一番仲のよかった友人を1人だけ呼んだ。

彼は家業が宝石屋で、僕の団地の近くの立派なマンションに住む、T君だった。

彼は僕の家の中を見て、絶句していた。

おそらく相当引いていたはずだ。

僕は罰ゲームのような状況の中、もうずいぶん前に発売された、誰もが持っているファミコンゲームを二人でやった。

両親は子供にモノをあまり買い与えないという教育方針だったので、欲しい物は誕生日とクリスマスの年2回くらいしか買って貰えるチャンスがない。

そんな状況では、簡易テストで100点を5回取ったらファミカセ1つ買ってもらえるT君が遊んだことが無くて、喜ぶようなゲームを持っているはずがなかった。

僕らは随分と古いゲームをやりながら、ぬるい麦茶を飲んでいた。

2人テレビを見ながら、盛り上がりに欠ける時間が流れていた。

 

そこにパートを終えた母親が帰ってきた。

状況を知らない母親は、珍しく来ている友人を笑顔で迎えてくれた。

しかし僕は、こんな家に呼ばなきゃならなかった状況も知らない母親の笑顔を憎んだ。

そのあとTくんはソワソワと早めに帰っていった。

僕は夕食までの間に友人のことを色々質問してくる母親の鬱陶しさや、家が汚いのがバレた悲しさ、でも自分だけではどうすることもできないこの生活、なのに笑顔で愛情を注いでくれる母親、そういう色んなものが同居して、泣きそうになっていた。

母親は僕から見ても美人だったし、こんな父親じゃなくてもっといい人選べたろうにな。。。

当時ずっとそんな思いを抱いていた。

 

その後は何となく、同級生がうちに来たいという話しが出なくなった

T君からの情報を聞いて、気を使ってくれてるんだろうなと思った。

その後もそれなりに僕は彼らの家に呼んでもらえた。

そしてその友情はずっと続くものだと思っていた。

 

そんな中、学校でちょっとしたことがあって、友人同士で喧嘩をした。

ただ少し言い争っただけだと思う。

そして最後に彼は僕に「ゴミ捨て場みたいな家に住んでるくせに!」と言い放った。

それから暫らく絶交し、僕は誰とも仲良くしていない期間があった。

学校が終わって友達とも遊ばず、午後に放送していたB級映画やドラマの再放送を見ていた。

両親は仕事とパートで、帰るのは夕方か夜だ。

妹はいつも、外で友達と遊んでいるからまだ帰ってこない。

この時間だけは僕の自由になる。

テレビをぼーっと見ていると、夕方頃になる。

夕方になると、家の窓ガラスからは巨大な赤オレンジ色の西日が強く差し込む家だった。

そしてそれは、もうすぐ誰かが帰って来てしまう時間を意味するのだった。

 

夕方になるとよく母親は僕を呼び、その夕日や夕暮れの景色を見せてきた。

晴れた日の夕焼けはこんな綺麗な色になるのよね、と笑顔で。

少しは綺麗だと思ったけれど、心に響くものがなかった。

それよりももっと下らない沢山の不満で満たされていた。

そんな事で幸せを感じられる母親が不思議だった。

もっと裕福な人と結婚すればよかったのにな、と思っていた。

 

僕はその頃から、ずっと早く家を出たいと思っていた。

自分の力だけでは変えられない、僕を取り巻く環境の不自由さに喘いでいた。

1人で稼いで、1人で住んで、1人で暮らして。

自由に過ごし、欲しいものを揃えて、整頓された家を作って。

夜寝る前に、そんな妄想をしながら眠りについていた。

 

大学を卒業して就職したのは、実家から通うには到底無理がある距離だった。

逃げるように家をでて、それっきりしばらくずっと帰らなかった。

1人で自由になるために、母親を置いて逃げだしたように感じていた。

そして今となれば、それなりに自由に暮らせるようになった。

独り身で、好きなものを買って、好きに生きている。

気ままだし、誰かの責任を負うような立場でもない。

なのになんだかすごく、満たされない気持ちでいる。

あの頃を取り戻すかの様にモノが増えるほど、また散らかった汚い家に変わっていく。

それは赤オレンジ色の西日を浴びながら佇む僕と、あの頃のままと、何も変っちゃいない気がしているのだ。